8月1日は花火の日です。
毎年夏になるとあっちこっちの観光地で、花火大会が行われます。
花火はきれいで素敵です。
お盆のころになると、従兄弟なんかも祖父母の家に集まり、皆で花火大会で楽しかったですね。
こんな素敵な花火! その歴史や由来、気になりませんか? おまけに線香花火は関東と関西で違う?本当?などといったことを調べてみたいと思います。
夏の夜長、軽く目を通して頂ければうれしいですね!
花火の歴史は?
現代の日本の花火、その色と技、華やかさにおいては世界一だと思いますが、
日本において花火が、いつどこで、どんな機会で行われるようになったかは定かではないそうです。
一番古い記録は、室町時代の公家、万里小路時房(まりのこうじときふさ)の日記『建聖院内府記』:文安4年3月21日(1447年5月5日)には、浄華院で法事を行った後に、境内で「唐人」が花火とみられる「風流事」を披露したと有ります。
「鼠(ねずみ)」と称し、火をつけると「走廻(そうかい)」するもの、手にもって火を付けると空中を「流星」のように飛ぶものなど、現代の花火に通じるものだったようです。
よほど楽しかったのか、「稀代の火術也」と称賛し、褒美を与えています。
この頃には、足利義満の死後途絶えていた、「明(みん)」との貿易も再開されており、花火もこのころ大陸から持ち込まれたようです。
ただし、観賞用の花火が本格的に伝来したのは戦国時代の様で、鉄砲や火薬とともに伝わったようです。
まもなく日本でも、花火が製造されるようになったとされています。
ただし、花火の記録はポルトガル人の『イエズス会日本報告』や『フロイス日本史』などに色々のイベントとして花火を使った催し物の記録がありますが、いずれも、宣教師や「唐人」によるものが主体でした。
外国人による花火の技術を学び、日本独自の花火が作られ始めたのは、1585年頃のようで、『信長公記』には、それらしい記載があります。
この頃には鉄砲に使用する火薬の大量生産が始まっており、日本独自の花火製造が行われていたと考えられます。
江戸時代になり、戦(いくさ)がなくなると、花火を専門に取り扱う「火薬屋」が登場。
1648年には江戸幕府が、墨田川以外での花火の打ち上げ禁止の「御触れ」を出しており、当時から花火は人気になっていたとみられます。
1659年には両国横山町に『鍵屋』が、1810年には『鍵屋』の手代が、暖簾分け(のれんわけ)して、両国広小路吉川町に『玉屋』という店を構えました。
これ以降、鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎え、花火は急速に発展して行きました。
8月1日は花火の日の由来は?
第二次世界大戦敗戦後、1945年10月に連合軍最高司令部(GHQ)により花火製造は禁止されていましたが、日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の打ち上げを許可。
これを受けて両国花火組合主催、読売新聞社が後援し、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活しました。
この日を記念して8月1日は「花火の日」と制定されました。
線香花火は関東と関西で違う?
線香花火には、関東と関西では大きな違いがあります。
関東で一般的な線香花火は、“和紙のこより”の先に黒色火薬が包み込まれたもので、全体が紙で出来ています。
「長手牡丹(ながてぼたん)」と呼ばれます。
関西で一般的なものは、稲わらの芯や竹ひごで出来た柄(え)の先ににかわで練った黒色火薬をむき出しに付着させたものです。
「スポ手牡丹(すぽてぼたん)」と呼ばれます。
まとめ
線香花火こそ、究極の花火。
持ち方ひとつで火の玉の持続時間は大きく変化します。
ところで先ほどの、スポ手牡丹、見た目は中々地味ですが、パチパチとはじけて燃える様はとても華やかだそうです。 一度見てみたいですね!
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