夏の夜長、夕涼みがてら花火大会に行くと、打ち上げ花火の“ド~ン”と言う音と同時に、夜空を彩る大輪の花火。
おもわず皆、「わ~♪」とか「お~♪」とか歓声が上がります。
江戸時代の両国の花火大会では、70万人といわれる人出があったとか。
きっと、思わず歓声が上がってしまうほどの素晴らしい花火がいくつもあったでしょうが、その歓声の中に「かぎや~」とか「たまや~」とかいう掛け声が多くあったようです。
実はこの「鍵屋」と「玉屋」は江戸時代に名を馳せた、花火師たちの屋号だということをご存じでしょうか?
今回は、この花火でおなじみの掛声「鍵屋」と「玉屋」の由来やその意味、はたまた、誰が日本で初めて花火を見たのかなどについてご紹介します。
それでは!ド~ンといきましょう。
玉屋(たまや)の由来は?
「玉屋」は、七代目鍵屋の番頭だった清七と言う人が、文化5年(1808年)暖簾分け(のれんわけ)して立ち上げた花火屋です。
もともと鍵屋の守護神である、お稲荷さんの狐は一方は鍵を、他方は玉を咥えています。
鍵屋はそのお稲荷さんの鍵をとって屋号「鍵屋」としていたため、清七はもう一方が咥えていた、玉をとって屋号「玉屋」としました。
しかし、天保13年(1842年)「玉屋」から出火して大火事を起こしてしまい、江戸を追放されました。
その結果、「玉屋」はわずか一代で家名断絶となっています。
玉屋(たまや)の意味は?
「玉屋」が江戸で輝いていたのはたった30数年。
それなのに「たまや~」の掛声が多いのは、玉屋の花火技術が優れていたこと。
それと、一代で潰れてしまった玉屋を応援するための掛声です。
これが、100年以上に渡って受け継がれているのは物凄いことです。
こんな狂歌があります「橋の上、玉屋玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ錠なし」。
“情”と“錠”をかけており、『鍵屋の声がねえのも仕方あるめえ。
錠がねえんじゃ口が開かねえ』で、実力があったのにたった一代で花火のように消えた玉屋への愛情があったのでしょう。
鍵屋(かぎや)の由来は?
「鍵屋」とは現存する日本で最も古い花火師で、万治2年(1659年)に、初代与兵衛が日本橋横山町に「鍵屋」という花火屋を開いています。
鍵屋の守護神はお稲荷さんで、鍵屋の番頭清七が暖簾分けする際、「玉屋」の屋号を与えたことからも、七代目鍵屋店主の心意気が伝わってきます。
その後、鍵屋は両国の花火を引き受けつつ、代々世襲し、暖簾(のれん)を守ってきましたが、
12代目のとき、暖簾を絶やさないために、同業の天野氏に暖簾を託し、現代15代目の天野安喜名さんが活躍しています。
鍵屋(かぎや)の意味は?
江戸の名物となった両国川開きの大花火は、現在全国各地で開催されている花火大会の発祥となった催しと言えますが、これを支えた「鍵屋」の初代弥兵衛があったればこそ。
奈良篠原村より江戸に出て、幕府御用達の花火師になったことからも、他の花火師に比べ、その技術が高かったことが伺えます。
徳川家康が日本で初めて花火を観賞した?
「駿府政事録」によると、戦乱が落ち着いた慶長18年(1613年)8月、駿府城を訪れた英国人使者によって、城内で家康が花火を見物したという記録が残っています。
さらに、家康は三河の鉄砲隊に、観賞用の花火を作らせたと言うのが、日本における花火の起源だとされています。
まとめ
日本で最初の花火大会は享保18年(1733年)の両国の花火で、現在の墨田川花火大会の原型です。
この前年の享保17年には、上方では大飢饉、江戸ではコレラの流行があり、多くの人々が亡くなりました。
これらの犠牲者を弔い供養するために始められたという事です。
そんなこともちょっと思い出しながら、平和な世界に生きる喜びに感謝しましょう!
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