端午の節句といえば、大空に泳ぐ鯉のぼり、鎧兜、鍾馗様の五月人形が思い浮かびます。
そして、もう一つの楽しみがお供えの和菓子です。
私は関東出身なので、「柏餅」を思い浮かべますが、
上方方面は「粽(チマキ)」だそうです。
端午の節句のお菓子ひとつとっても東西で違っている? 更には、なぜ端午の節句に食べるの?
疑問は尽きません、そんなお話をしたいと思います。
柏餅と粽(チマキ)の由来は?
柏餅は、お餅で小豆のあんや味噌でできたあんをくるみ、柏の葉で包み蒸籠(せいろ)などで、蒸しあげた和菓子です。
柏の葉をつかう理由は柏は昔から神聖な木とされていたことや、新芽が出る迄、古い葉が落ちない。
つまり、子供が生まれるまでは親は死なない、すなわち後継ぎが途絶えない。
子孫繁栄に結び付き縁起の良い食べ物として、江戸時代に武家を中心に広まりました。
一方の粽(チマキ)。
お餅やお米、お団子などを茅萱(ちがや)、笹、萱(かや)などでくるんだものです。
もともとは平安時代に中国から端午の節句が伝来したときに、一緒に伝えられ全国に広まったということですが、
手軽に作れて日持ちすることから、日本でも古来から作られていたという説もあります。
茅萱(ちがや)は古来、身に付く穢れ(けがれ)をお祓い(取り除く)するのにも使われる神聖な植物。
その生命力にあやかり邪気を払おうとしたからです。
東西の違いはなぜ?
鯉のぼりが泳ぐのを見ると、粽(チマキ)を思い出す人もいれば、柏餅を思い出し人もいます。
これは、まさに東西文化の違いから来ています。
粽(チマキ)は中国から端午の節句が伝来したとき、
一緒に伝えられ伝統を重んじる上方はチマキを伝承していきました。
一方関東では武家を中心に柏の木は新芽が出るまで、古い葉が落ちない。
転じて家計が絶えないということから、この柏餅が広まりました。
文献にもそれらの様子が書かれており、関東では柏餅、関西では粽(チマキ)を食べる傾向が、幕末ころにはほぼ定着していたことが分かります。
なぜ端午の節句に食べるの?
これには悲しい物語がついています。
今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がいたそうです。
屈原は国王の側近としてつかえ愛国の念と正義感にあつく、人々から大変慕われていました。
ところが国王に取り入ろうとする姦賊(かんぞく)達の陰謀によって失脚し、国を追われてしまいました。
彼は、現代では中国文学の銘作のひとつである、「離騒(りそう)」叙事詩を書き上げ、そのときの切ない思いを綴りました。
でも、最後には自国の行く末に絶望し、屈原は「泊羅(べきら)」という川に身を投げて一命を落としました。
その日が5月5日だったといわれています。
庶民は屈原の死を悼み、川に沈んだ屈原が魚に食べられてしまわないように、
小舟の上から鐘や太鼓を叩いて魚を脅したり、供物を投げ入れて弔い(とむらい)をしましたが、せっかくの供物も、屈原のもとに届く前に邪悪な龍に盗まれてしまうばかり。
そこで龍が苦手にしている茅萱(ちがや)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川に流すようにしたところ、
無事に屈原のもとに届くようになったといわれています。
これが粽(チマキ)の始まりとなり、中国では5月5日にチマキを作って災いを避ける風習ができ、これが端午の節句と結びつき、粽(チマキ)が日本に伝来しました。
まとめ
地方の方が上京して、関東の柏餅を目にしたとき、「これが柏餅?」と驚くことが有るそうです。
実は、柏の葉以外でくるんでいても、柏餅と呼ぶ地域があります。
それは、食物を載せたり、包んだりする「葉」の総称が「炊葉(かしわ)」というからです。
土地の風土を色濃く反映した和菓子は、長い年月をかけて伝えられてきた大切な食文化です。
子供の成長を喜びながら、ご縁のある土地の和菓子を味わうのも素敵なことです。
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